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多和田祖先の武勇伝











    十二世真浮



 俗にシベー多和田と呼ばれ、武術者で剛力だった。首里綾門大綱曳が行なわれたとき、中城御殿の前

で敵味方入り乱れて争いが始まった。争いはなかなか静まらず、“シベー多和田がこなければ争いはし

ずまらないだろう”と使いがだされることになった。 本人真浮は造り酒屋の弟の家(現在鳥掘二の十

七)で酒の原料の米をむしていた。そこへ使いがやって来て告げた。「大綱はムンドーヌウクリトーク

ト来てください」 真浮は、自分もそういうことは好きだから、クチシを炊く時使う大サモジを持って

、争いを分けるため走っていった。 争いは未だ続いていて分かれる気配もない。「しずまれ!しずま

れ」と言っても誰一人聞かない。しかたなく真浮は、敵味方なく争っている者全てを片っ端から大サモ

ジでかけ投げ、龍潭池にたたきこんでしまったという。 そこに筑佐事(今の巡査)がやって来て、争

いの張本人はこいつだと真浮を逮捕して平等所の連行していった、しかし取り調べの結果ことの真相が

っきりしてようやく放されることとなった。 そんなわけで、真浮に龍潭池に投げこまれた争いの人

々は、泳がされる羽目となって張り合いがなくなってしまい争いはしずまったのであった。






    十二世真依



 十三世真起の長男真珍は長髭(ながひげ)多和田と呼ばれ、質屋を経営した人で、武術者。特に足の

達人であった。 ある年の暮れ、肉豚を多頭に売ったその晩、真珍の家に泥棒が入り物色していた。真

珍がそれに気付き、追いかけたら泥棒は丈余の石垣を飛び越して逃げた。真珍は年はとっても武術者で

ある。同じように軽々と丈余の石垣を飛び越し、泥棒が体制を立て直す前に蹴り倒してつかまえてしま

った。みると、昼間豚を買った人である。 泥棒は、己の非を悟り泣いて詫びたそうで真浮はそれを赦

したという。相手を傷つけずに一蹴りで無抵抗にし、詫びれば赦すという、まさに本当の武術者である。






    十四世多和田里之子親雲上真旭



 真旭は道光十八年八月十三日、御冠船踊りの時二番入踊りの大黒天を演じた。三味線の天才で四歳か

ら三味線を弾奏した。また、琉球歌琴の祖で、淑姓手登根筑登之親雲上順寛に教えた。 真旭は美男子

であったという。大和上りした時、鹿児島津の殿様の所で若衆踊りを演じたところ奥女中にほれられ、

その部屋に軟禁され帰るに帰れなくなってしまった。同僚たちは出船が出来ず非常に困り果て、探して

いると噂を聞いた奥女中等が親雲上真旭を帰したという。結局、帰国するのが、四・五日も遅れたそう

で、美男子ゆえの災難だったそうである。






    一四世真睦 国王尚育王の前の御前試合



 一二世真矩の系統は武術者が多い。一三世真観は棒の使い手であった。また、一四世真睦は、多和田

棒を生み出した人で有名である。 真睦は先のメーガントウ、一五世真軸は後のメーガントウと呼ばれ

た武芸者である。

 真睦二十歳頃の話である。  真和志松川に松川マギーという大男で怪力で腕力のある人がいた、あ

るとき、その友達と多和田メーガントウの友達同志がしめし合わせて二人を勝負させようとたくらんだ

。「松川マギーが君のことを“青二才がなにが出来るか”と馬鹿にしているぞ。」  「多和田メー

ントウが君の事を“ナーカーブーカー”といっているぞ」  あの手この手を使って勝負させようとし

た。それが首里三平に広がり、武士たちの噂に上がり、とうとう山川の御屋敷で公式に試合をする事に

なった。

 時の国王尚育王の前の御前試合である。  さて試合当日、松川マギーは時刻前からメーガントウの

来るのを今か今かとまちかまえていた。時刻すれすれになってメーガントウも友達と連れ立って山川の

御屋敷にやって来た。  「ヘイ二才、君が多和田ぬメーガントウか。 今日は俺のテージクン拝まさ

やー。一拳でグソーかいだ」  松川マギーはメーガントウに向かって豪語した。 二人の体格を見比べ

るとまるで牛と山羊の差があった。松川マギーは最初から勝負はついたようなものだと意気込んで、さ

も軽蔑している様子である。  真睦はおじ気一つ見せず、「勝負はやって見なければわからないよ」

と一言あっさり言って屋敷の門をくぐった。松川マギーも門の中へつづいた。メーガントウは定刻に御

庭に出た。 

 見物人は「あの二才負けるかも知らん」と十人が十人そう思っていた。 試合審判は国王の武術指南

役の松村親雲上であった。試合が始まった。  時は流れ、お互いに見つめ合い間隔がじりじりせばま

り始めた。メーガントウが一瞬動いたかに見えた。しかし。かまえた態勢のまま両者ともくずれず、

び時が流れた。国王がたまりかねて、  「なぜ試合せぬか」と、問うた。  「勝負はつきました」と

、松村親雲上が言上した。  「だれが勝ったか」 「この通りです」と松村親雲上がマギーの前に進ん

でその額を一寸押すと、朽木が倒れるように体を固くしてかまえの体制のまま倒れた。松川マギーは

絶していたのである。 先ほどメーガントウが一寸動いたと見えたとき、電光石火の一蹴りが相手の急

所に入ったのであった。  友達に解放され息を吹き返したマギーは、世間には上には上があるものだ

、自分は過信し怪力腕力に頼ったのは情けないことだと非を認めたという。  マギーは拳が強く、メーガ

ントウは足技が強く、手と足の違い、武術の奥義に達したひとの話である。







多和田(麻姓)の家紋















多和田の初代真清は儀間真常(中国名:麻平衡・まへいこう)の長男真之の三男。儀間真常の孫である。







沖縄地名の由来

沖縄地名の由来を掲載しています。






ウチナー般若心経


安和守礼氏翻訳のウチナー口般若心経です。






写真

北谷美浜付近の写真です








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